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ダライ・ラマに恋して

という本を、今日読み終わった。

この本は、母に借りた本。

母は、あの世まで持っていくと言いました。こんな発言をした事はありません。
それほどまでに思い入れた本は、なかなか無いからなのでしょう。

読み方によれば、旅本なのですが、
著者である、たかの てるこ さんが、失恋をきっかけに、自分を省みたり
苦しさを味わい、救いを求めていたときに、ダライ・ラマという存在を本で触れ、
ダライ・ラマに会いたくて会いたくて、チベットに旅していったドキュメンタリーなのですが、


その中には、チベット仏教徒である町の人々とふれあいがあり、
日常の中に息づいたチベット仏教が記されていたからに違いありません。

聖典でスピリチュアリティー(最近流行のスピリチュアルではなく、本当の意味での
自己の真の存在であるスピリチュアリティー)に触れようとして
逆に遠く感じる人もいるのです。

母は、この本で、スピリチュアリティーに触れ、
仏典の教えに、普段の言葉で触れ、いくつもプチ悟りを得たのだと思います。


なぜ、この本を読んだのか


それは、娘が、ヒマラヤにとうとう行くからだったのでした。
彼女の娘は、そりゃ何度もインドに行っています。

インドというだけで、母親としてはクラクラするでしょう。
なのに、娘は、連日テレビで、ペストがインドで流行しているというニュースでもちきりだった
最中に、はじめてのインドに旅立ったのです。

娘は、はじめてのインドですから、ツアーに参加したのですが、娘と友人以外はすべて
ペストのニュースの最中ですから、キャンセルになっていたのです。
そのツアーは、二人以上から決行されるものでしたから、娘と友人が行く限り、
没にはならなかった事に、空港についてから気づいたのでした。

死を意識した娘。このゲートをくぐり旅立てば、ペストになって死ぬかもしれない地に行く・・・
やめるなら今だ   しかし、ヘタレな娘は、緊急時に根性を見せることが多く・・・・・・
「どうしよう、どうしようと悩んでいる、この時間がどうなるわけでもない。
行くなら、いっそ、とっととゲートをくぐってしまえ!退路を断てば、行くしかなくなる!
そしたら、覚悟も決まるじゃないか!」

なぜ、そんな覚悟を決めて旅をするのかは、彼女にしかわからないが、
娘はそうして、はじめてのこころのふるさとに旅たったのでした。


そんなはじまりから、
また、インド?
また、インド?

と、母は、何度も娘をインドに送り出さねばなりませんでした。

もう、最後の方は、
「うちの子なんか、もっと汚いところにいつも行っとるでー」

「うちの子なんか、そんなええホテルになんか泊まらへんよ。そこらのホテルや
寺院におるよ」

「何怖がって?うちの子なんか、もっとすごいとこ行ってるでぇ」


そんな事を言って、会社をやめてから、自分を探すとインドに旅立ち、
ショックを受けて帰ってきた娘のいとこに語って励ましていたくらいだった。

いとこは、インドでインドの人々とその生活を観て、
「再び、ちゃんと働こう。お金が必要だ」と思って帰ってきたそうな。

母は、
「インドという国にいって、そんな風に思う人もいるのやなぁ・・・それぞれやなぁ・・・
でも、それもその人の気づきってものなのやろな。インドの見せた姿・・・」
と言っていたが。

母の娘は
インドの地とインドの人々を観て、
これでも人は生きていけるんだ・・・なんてダイナミックなんだろう・・・
なんて、すばらしいんだろう・・・これが生きる本質につながる・・・
なんて奥深いんだろう      と思ったものだし、母も、それに共感もできた。


しかし、娘は、とうとうヒマラヤに行くと言った。
しかも、飛行機にパニック発作的な症状が出るかもしれなくて怖いからと言い出して
海外にも行けていなかった数年なのに、いきなり。

ヨーガの得度に行くという。
それは、母は、良いと思った。この子は、そういう道の子なのだと、母は、つくづく思い至っていたからだ。
それは、この子の人生には欠かせないのだろうと。


しかし、ヒマラヤへの道のりを母は心配した。

母は、娘の送って来た、日程表を観たのだ。
ある町からある町へ、一日かけて、車で行くらしい、
また、次の日も、ある町からある町へ一日かけて車で移動するらしい・・・

その距離を父と計算したらしい。
そうすると、どれくらいのスピードで進むのかを。

日本では考えられないくらいに、時間をかけての移動・・・・・・・ってことは、
こんなスピードで行かなくてはならないくらいに、危険ながけっぷちなどの道のりを行くに違いない!!!


今度こそは、娘は死んで帰ってくるかもしれない。


今度だけは、そう思ったと、帰国してから母は言っていた。


母は、娘の行く場所を感じ取ろうとした。

ヒマラヤと言っても、娘の行くところは、すぐ先はチベットだとか言っていた。
チベット・・・・・ダライ・ラマのいるところなら、
何か雰囲気を感じ取れるんじゃないか

そう、本屋さんでこの本を見つけたときに、運命的な閃きで手にとったのだろう。


母は、実際には知らなかったが、
ダライ・ラマが現在亡命して滞在されているインドのダラムサラと、娘の行ったマナリは途中の町から枝分かれして、ちょうど同じ距離を進んだくらいの位置関係だったのです。

娘の帰国後、母は
良い本に出会ったことを話し、ダライ・ラマの魅力についても語った。
「みほ、ダライ・ラマにお会いできるというのは、本当に稀なことで、
ほんとうに功徳、縁深いことなんやって」

母は娘に熱く語った。


「おかあちゃん、私、ダライ・ラマに会ったことあるよ。講演でやけど」


「講演だろうが、何だろうが、その縁に恵まれるということが、稀で、すばらしい縁、すばらしい功徳なんやんか!あんた、ほんまにすばらしい縁やなぁ」


「私も、そう思った。講演の内容は、本でも読めるし、仏教に触れていて、実践していれば、
あまり難しくない内容ではあった。誰にでもわかるような話をされた。
私は、講演が稀なのではなくて、その講演の最後に合掌をされて、
そこにいる人々を観まわされたときに、この人は!!!!!
と鳥肌がだったんや。

あんな合掌をする人を私は知らない。

あの合掌は、ただ、手を合わせているのでも、挨拶にされているのでもなかった。
人々のうちに、本当に一人一人、また生きとし生けるすべての中に、実際に仏を実感している
その、仏に対する合掌やったんや。

ダライ・ラマともあろうお人からの合掌が、逆にこちらの内なる存在を崇め、真に敬う合掌だったのを、それは、体験的に
瞬間的に悟りがあって、驚きと感動で、鳥肌がたって、涙があふれた。
あんな合掌をできる人を、私はこれから先にも出会えないだろうと思う。
あの合掌が、すべての悟りやった」


「そうかぁ、そうかぁ。」



そんな話をした。



娘は、この本の中で、
母がどの部分に感動したのか、母のはさんでいた二枚のはがきで
推察することができた。


死に対するチベット仏教徒の思いや思想が語られているところと、

起こりもしないことに思い煩うより、死を恐れるより、その過程を味わい、
今をしっかり感謝して生きることだという意味のダライ・ラマの言葉のところだった。

母は、年齢を重ねてきて、
死を意識している。

死ぬとはどういう事だろう、いったいどうなることなのだろう
いったいどこにいくことなのだろう

死を覚えていない者にとって、死は恐怖でもある。

母は、日々の暮らしの中で、死を想うのだ。
だから、死に対して、単純に明快に語られた、その二箇所は、彼女のこころに響いたのに違いない。


娘も死を想いながら日々暮らしている。
それは、ヨーガの、また仏道の生き方なのかもしれない。

死をどのように迎えるか   は、どのように生きるかの最大の道しるべだからだ。
よく、また、かなりしばしば、娘は死を意識する。

それは、死にたいだとか、死ぬんじゃないだろうかという意味での死ではない。

死を死とは何かを悟ることこそ、
この世で一番のダイナミックな生き方の力でもあると、そのことだけは悟っているからでした。

死とは、生であり、
死とは、再生であり。
死とは、永遠の生でもあり。

それらを深くとはまだとても言えないが、そう想うほどには悟れたほど、娘は実は、生きるために、
苦しみぬいた経験があったからかもしれない。
それゆえ、娘は、再び生きた、再び立ったのだろう。



娘のこころに響いたところも多い本だった。


無執着とは、大事にしないことではなく、
ただ、何も何事も永遠に続くものではないと、この世を悟り、
その時々、その全てを大事にすることだ   という言葉は、

何度も何度もわかったつもりでいた無執着の、勘違いしている箇所をカチっと修正してくれた。


生きとし生けるもの全てを大事にすること


たった、あたりまえの、毎日祈っていたはずのこのことも、

生きとしいけるものとは、己も含まれていることを悟らせた。
己をも、その生きとし生けるものの一として真の己を尊ぶことを実践できていずして、
この教えを生きているとは言えなかったんだ・・・・・・

ということを悟らせた。
今までの自分が、他者にむき、己も含めて一として、尊べていず、自分をないがしろにしたり、
自分の命に深く感謝していなかったことに気づいた。


そして、最後に、
ダライ・ラマとたかの てるこさんが会われた時の、ダライ・ラマの言葉
生きるとは、存在を許されることでもあり・・・

という言葉。


生きるとは、何かをなさねばならぬとか、なせぬなら生きている価値がないとか、
生きる意味だとか、
そんなことを想い、己を卑下しては、罪の意識にさいなまれる事も、時にある娘は、

生きるとは、存在すること


という言葉に、深く癒され、涙した。

ヨーガでは、今存在していることを自覚できるということは、永遠に存在するということ。
ヨーガにおいて、死とは、肉体という衣をぬぐことであり、
我々の意識は、生まれたこともなく、よって死ぬこともないという考え方をしている。

常に在りつづけているだけ

常に在りつづけてきたし、これからも在りつづける。


だから、今、「私」が存在していることを感じられたとしたら、
それこそが、永遠の命の証なのだ。

娘は、10年前に、あるとんでもない自己否定の体験から、存在を瞑想しつづけ、
ある日、私が在るという事を悟ったことがあった。

そして、私がそれを深くわかろうがわかるまいが、
今こうして、自分が在ることを自覚できているということは、
私は、ずっと在ったし、今後も在りつづけるのだ

そして、それは、大いなるものの作用であるとしたならば、
私が存在することは、大いなるものの意思そのものであり、大いなるものの愛(愛情ではない)によるものであり、
私は、見捨てられるものではないのだということを。

思えば、そう瞑想したほどの苦だったのだ・・・

よく生きていたなぁ。

しかし、今、こうして在るためのものなら、生きて通りきるはずの苦しみだったのかもしれない。
でも、決して簡単ではなかったろう。


存在

その事の悟りが、この本で、また少し悟れた。



未熟。

でも、この未熟とは、なんてしあわせを運ぶものなのだろう。
未熟ゆえ、こうして悟りのしあわせがある。

未熟ゆえ、智慧にふれ感嘆する。


苦しさを知るゆえ、

体の不調をしるゆえ、しあわせを感じることができる。



娘は、この本を読み終わったら、
母に、最高のプレゼントと一緒に、本を返そうと思っていた。

なぜなら母は

「この本だけは返してよ!棺おけに入れてもらいたい本なんやし!」

といきこんでいたので、絶対に返さねばならないと思った。


娘は、ダライ・ラマの写真のハガキを売っている店を知っていた。
娘は、読み終える時、ダライ・ラマが母のもとにも
功徳として届くようにできるだろうと思ったのだった。

その日のための準備に、もうそのハガキは買っていた。



ダライ・ラマの写真は、店には二枚あった。
しかし、もう二枚しかなかった。
娘は、二枚とも買った。



一枚は、母への恵み


なんと、仏の慈悲は深いことか


一枚は、そんな娘にも届くように、用意されてあったに違いない。






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2007/10/19 11:30 | みずきの記録 | ダライ・ラマ チベット語:???????????? taa-la’i bla-ma; 中国語簡体字:;繁体字:達?喇嘛;漢語ピンイン:)は、チベット仏教の最高指導者のことであり、またその称号のことをいう。ダライとはモンゴル語で大海を意味し、ラマ僧|ラマとは師の事を表している。

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